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エッセイ 『インド・ネパール的曼荼羅世界』
大坪光泉

Linga New Year

1970年、当時いけばな歴10年ちょっと、いけばなにおいても、人生においても多くの悩みを持ってインドに私は旅立った。これが初めての海外旅行でもあった。すべての悩みを解決してくれることを期待していた。その頃はビートルズがインドの音楽に興味を示していたこともあって、世界中のヒッピーがインド、ネパールに向かった時代であった。

バンコック経由でカルカッタに入っていったのだが、映画でも見たことのないような異常な人間の環境に突如放り込まれた私は、一人旅のためもあり、恐怖感とあいまって圧倒され呆然となりつつ、目的のベナレスというガンジス川のほとりの古い聖地に辿り着いた。

そこで見たものは、花びらを紙に捧げる、仏教で言う散華(さんげ)という行為であった。ヒンズー教の象徴のリンガという男根上の墓石のような石が、ちょうど日本のお地蔵さんのようにあちこちに立っていて、人々は花びらをリンガに降りそそぎ、手を合わせるのだった。おおらかに生命の発展を願う宗教である。様々なインド旅行記にもこのような風習が書かれているのを見たことがなかったが、いけばな人である自分だからこそ発見したものであったろう。朝、人々が花びらを捧げる姿は、大発見的に感動したものであった。周りには古い花びらが腐って土に変わろうとしていた。

モンキーテンプルという大きなヒンズー寺院の祭りに出くわしたときは、さらに感動的であった。異教徒である私は近くによることはできなかったが、巨大なリンガに向かって群衆が嵐のように花びらを投げ降りそそいでいる様は、圧巻であった。

ベナレスの道路のあちこちには、露店のおばさんたちが花をざるに入れて売っている。恐らく、低いカーストの人たちの仕事なのだろうが、その景色は絵葉書のように美しい。しかし、インドではこの花売りや、リンガに捧げられる花の様子を、外の人に知らせようとはしないだろう。これらはあまりにも卑近な日常的なことであり、美とは無縁なことなのだろう。

私にとってのベナレスは、べたべたに濡れて花びらにまみれた路地の街であるが、映画や写真集では、ガンジス川の沐浴と野外火葬の街としてのみ写される。街の匂いとべたべた感は写されない。清潔過剰国の日本などから来た人には生ゴミ状の腐った花の中から黒びかりして濡れた石が立っている様子などには、写真家も興味を示さないのであろう。

私は哲学的風貌のガイドに、散乱する花ぴらを指差して尋ねた。「どうして枝ごと花を捧げないのだ?花首で切って投げるなど、残酷ではないか」ガイドには質問の」意味がほとんど理解できない様子だった。私は手で、自分の首のところをえいやッと切って見せて、花首で切るのは殺人と似ていて恐ろしいではないか」と問うて、ようやく彼は理解し、「枝ごと切るならなお残酷でいけない。再生が絶たれてしまうではないか、花首だけ切るなら再生のサイクルは続くであろう。」と諭されてしまったのだった。

この経験が、私のいけばな感を根底から揺るがした。日本のいけばなは、世界のどこにおいても取り入れるべき良い文化でありうるのだろうかと、空から見る日本は緑だが、空から見る中国やインドは茶色だった。木や草のはえている面積比率に、日本とは圧倒的な違いがあるのだ。

仏教の曼荼羅Linga Japonica

当時のヒッピーの終着駅とも言われたカトマンズにも何日も滞在した。ホテルの部屋の引出しには、前の客のマリファナがいっぱい残っていたりしたものだ。カトマンズにはチベットから入ってきた曼荼羅も含めて、様々な曼荼羅絵を見ることができる。ローソクや裸電球の下で見せられる曼荼羅絵は、頭の芯がしびれてくる気持ちだ。良いものは値も高いうえに国外持ち出し禁止だから、後に東京で曼荼羅展が開催されたとき、印刷の巨大ポスターを買い集めて、自宅の稽古場の天井一面に約20年間貼り付けて、仰向けになってインド音楽やジャズを聞いて作品を考えたりしていたが、今は家を新しくしたため、残念ながらそれらはない。曼荼羅絵の創世記のものは特に素晴らしく、宇宙と人間のドラマのようなものだ。

ところで、立華は曼茶羅に似ている。曼茶羅を頭上に感じながら立華をいけていたある日、あれっ立華は曼茶羅なのだ、と思い始めるようになった。立華は発展の段階で、神道、仏教、儒教の影響を受けながらインド、中国、韓国の文化を吸収して、現在の形になってきたのだから当然ともいえる。特にうまくいけあげた時は、曼荼羅図の中にじ自分が入っている気持ちになってくる。ネパールの町、カトマンズとか、バドガオンに居ると、やはり曼荼羅の中に迷い込んでいる気分がしてくる。町全体が、いくつもの曼茶羅構造になっているからだろう。自分の人生に迷いを感じた若者たちが、カトマンズで安らぐのは、町全体の曼荼羅構造からくるのかもしれない。それなら若者たちは、迷いを生じたら、立華をやってみると良いかもしれない。神を信ずる宗教の世界では、信心深いのが正義であり、浅いのは不正義となるが、宗教外の世界から見れば、浅い信仰も深い信仰も同じく、存在価値と存在権利があるだろう。私の中にある信仰心は何かに向かっているのか分からないが、確かに存在する。場合によっては、まさしくヒンズー教徒になっているのかもしれない。


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